辻山幸宜さんによる「自治基本条例」についてのお話し

       2004、9、30 山梨学院大学 40号館102教室にて

 自治基本条例を色々な地域で説明して、「自治基本条例は大切だよ!」っていうのをここでも今日、皆さんに、説明します。
 最初に、新聞で山梨学院の学生たちが、自治基本条例を作っているのを拝見しました。なぜ今、あちこちで自治基本条例に取り組まれるようになったのか。現在、施行されているのは、およそ20くらいで、今年度中で4050100で、来年の三月にもまたかかりそうです。ですから、100くらいのオーダーになるのは、あっという間だと思います。なぜ、そのように多くのところで自治基本条例という、しかも、それを自治体の憲法というふうにつくられるのは、何故だろうと考えたが、色々な説があって、基本的には分権の時代がきたというのが大きい。そこで、私たちのこの暮らしの中で、分権化の時代というのは5年で、2000年から分権化へ移行した、よく言われるのは法制度の改革で、この4年間でどのように分権化されてきたのかは、まだ実証されていない。多くのところで、まだ変わっているといえる。実は、大きく転換したのをおさえる。私たちの今までの暮らしは、分権化の時代で自ら治めていました。集権型で、中央政府が接近し、中央政府と地方政府が手を携えて、地方の党首を担当した、つまり、集権型システムは長いようにおもいますが、120年くらい。私たちが生活していく上で困難はありますが、例えば雨が降ったら、靴がドロドロになっちゃったとして、それをどう解決していくというのは、現在では役所がアスファルトなどをひいているけど、昔は自らの手で整えていた。つまり、“道普請”というものです。自分たちの生活社会、自分たちで管理していく、日本の場合は、農村、自治集落といいますが、千数百年間は地域が変化しなかった。色々な事件があったが、また集落は形成された。このようなことがあったので、問題解決として、寄合というものが出来た。集まりを持っている全世帯参加で、その家の家長がでてきた。早く‘道普請’やダムなどを、つくるなどという共同作業を、ここで決定し、段取りをつける。その他に、労働力を用いよって公共財の管理を自分たちでやらなければならない。これは、大雑把ですが、1200年は続いただろうという、集落の暮らし方です。労働力を出せない人は、出不足金を払わなくてはいけない。お金を役員が預かる、その段階からさらに、組織化現象、工業化現象が進むと、結局誰も来ないという状況が発生します。つまり欠席者ばかりになってしまうと、お金はたくさんあるんだけど、作業する人がいない。これではその集落を維持していくことはできません。そこで、この寄合を緊急に召集しまして、これでは駄目だというので、ちょうどここ(出不足金)に積み立ててきたお金があるので、これを払って、誰か専門集団にですね、専門に共同作業に代わって、堤防を補修してもらったりするような人たちがいないかな、と募集するんです。で、募集して、専門家集団にですね、仕事を頼みます。で、専門家集団が集落の共同作業に代わって、自分たちで公共財の管理を行う。どのようなことになるかというと、この寄合でですね、「何月何日までやってもらいたい。それをやってくれれば、いくらのお金を支払います。」という関係が成り立ちます。なんとなくなるほどということに、気がつきましたか、作業でさえ集まらないのだから、寄合いになんか欠席者がでてきましてね、それでみんなが頭を抱えます。全員集まるのは無理だから、5件に一人ぐらいずつ、代表を出そうじゃないか、というので、総代ということで、代表者でやろうという、今で言う議会。近代議会の始まりです。そして人々が、自分の労働力の代わりに、お金を差し出すという方法、これは今で言う、税金みたいなものですね。税金を投入して、専門家集団に、指定した公共財の管理を行ってもらう。これはいまでいうところの行政といわれるもの。行政というのは、このようにして、集落社会の中から生み出された。やがて、社会の進歩と共にですね、様々な能力を身につけて、専門性を身につけて、これが肥大化していくことがありますが、その前にですね、そのようにしておさえてほしいのはですね、この行政があるいは、これを自治体政府といってもいいのですが、政府機構といわれる専門に、その地域の公共的な課題を消費するような組織というものは、このように私たちの生活社会から生み出された。したがって、ここは、(集落と寄合と専門)ある種の同一性があって、どちらが、どちらを支配するというもはなく、委託を受けて仕事をやる、この関係がですね、やがて、近代統一国家へ向かう中で崩れていくものである。日本で言いますと、雑学をちょっと紹介していきますとね、明治初期の記録によると、この集落は83000位だと言われています。おおむね80戸程の小さなもの。このような実態があったわけですけど、近代国家ができてですね、日本の場合は、明治維新によって近代統一国家ができるわけですけど、統一国家とそれまでの幕藩体制とどこかが違ったかということです。その国の出来事がすべて中央政府のせいになるといったことです。例えば、鹿児島のどこかで、伝染病が発生したと、今で言う狂牛病が発生したとします、それはまさしく、島津藩の問題だったとして、日本国政府、江戸にはほとんど影響がなく関係のないことだったのですが、統一国家ができた途端に日本国中をカバーしなければいけないという宿命を背負った。そこで、中央政府は、藩を地方行政の組織として使おうとするのが失敗する。それは、そこに中央政府より強いお殿様がいて、これでは駄目だということで、藩をつぶして、府県を置いた。明治4年の段階では、3府72県で、やがて統合していき、現在の47都道府県へとなった。府県の単位では広すぎるということで、もっと末端まで、目の届く地方行政組織が必要だ。とりわけ、戸籍を作らなければならない。江戸幕府では、何人いるかわからなかった。お寺などで人別帳は作られていたが、日本人が何人いるか統一的にはなっていなかった。そこで、役場を作ろうということで、8万3000を束ねて、区というものつくった。これは役場ですが、ここで最初は、戸籍を管理していた。それと同時に全国末端まで、情報の収集と命令伝達を明治4年のことだが失敗してしまうんです。それは、自治の伝統のあるところに当然、役場ができて、明治政府の役人がきてもなじまなかった。なんとかして、有効に統一国家の中央行政組織を構築しなければならないということで、結局、この単位(集落)になる。ここに出来上がった行政の人々の委託を受け、地域の緒課題を解決する能力をつけていく。この行政を末端機構に組み込もうとする。そこで、内務省は、80戸といわれていた集落を300個にまで束ねた。












































































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