今で言う合併であるが、300戸位を目標にひとつになりなさい。そして、その上に、この行政が、したがって行政も30戸を相手にするより、300戸を相手にするほうが強い力を持つから、統一国家の地方行政組織の末端として、踏み込んでいきたい。これが現在使われている市町村である。このときに、1888年の市制町村制という法律で、集落の生み出した自治機構を中央政府の地方行政機関として取り込んでいく。そうして、官のブロック。残されたブロックに最初に生活社会を営み、政府を生み出した本人たちの世界があり、ヨーロッパでいう市民社会という生活社会、こちらを民という。上手に統治していくには官の方が上位で、民のほうが下位であるという関係を作ることで、国内が上手く統治できるといった仕組みを作る。これが先ほど話した中央集権的システムというのが、1888年に完成した。この仕組みがどのように全国を統治したかというと、だんご三兄弟のような串を幹ブロックに縦に打って、いわば勝手な動きができないようにする。このようにして上(官)から下(民)へと情報や指令を伝達させて強制力を発揮させた。どんな串を打っていたかということは、中央集権システムの分析になるが、一本目には法令という串をさす。つまり、下位の政府は、国の法令に違反してはならないという関係を作る。二本目は行政強制という串をさす。日本の場合特別に太くて強い串を打った。それは、法律による統制ではなく、官庁が下位の政府を統制する。よく言う訓令権や監督権といわれるようなもの。訓令権は、通達によって指示を出す。そしてそれに従わせる。さらに三本目に財政による統制を打ち込む。そのほかにも人事による統制をするように天下りのようなもので情報を集めたり、規制したりする。このようにしてきっちり出来上がった政府公共部門のシステムを中央集権的なシステムといっている。これが今日まで約百数十年にわたってこの国の統治ということをやってきた。新しい憲法ができて大きく変換したというが、この構造自体は変わっていない。これが俗に言われる「憲法変われど、行政変われず」といったものである。限界に来たといわれるのが1990年代である。ヨーロッパではもう少し早く、1970年代の後半から集権的な国家では維持できないという危機感から分権化が行われるようになる。日本の場合には例えば一国というシステムの中で、一国が動いているためには3つのシステムが相互に働き、機能を果たす。それは、政府システム、経済システム、少し小さくなるが社会システム、この3つのシステムがうまく機能を発揮することにより一国が形成される。このように考えられている。日本の場合にはとりわけ社会システムが脆弱である。よく政府公共部門が拡大していたといわれるが、実はこの関係には相互の関係があります。例えば、母親が仕事に行けば、おじいさんなどが孫の面倒を見るといったような社会機能が働いていた時代からやがて核家族になって子供が生まれ、親もおじいさんなどもそばにいないとなるとその役割は政府がみなければならなくなる。例えば、政府は公共の保育園に預けるとか、市場だと民間保育に預ける。社会を担っていたものをどんどんと他のシステムに依存せざるおえなくなってきた。そしてこのように小さくなった政府自体をどうやって維持していくかということが大きな課題になってきている。一番簡単なのは政府にあるものを三等分する。そうすると地域公共部門も軽量になるのではないか。要するにセクター間のバランスが悪い。それを実現するために地方分権がある。地方分権とは中央に集中しすぎた権力や財源を地方に移すこと。地方分権によって何を実現するかというと、簡単に言うと、この串を何本か抜いたわけですね。たとえば法令による統制という串を抜いたわけですね。地方自治法の第2条です。国の法令は地方公共団体の自主性を損なうようなものであってはならないという縛りをかけました。つまり法令が市町村の行政を縛ってはダメだということ。第二番目に行政統制というのをはずすことをやりました。ご承知のように機関委任体制はすでに廃止されて、指揮官という言葉も国家統制組織法からなくなりました。通達によって統制をとってきた通達もまた、効果、強制力を持たないというものになりました。そのようにして何本かの串を抜きました。今抜こうとしているのは財政統制で、全部抜くのは難しいが、三位一体改革というのはまさに財政統制の串を少し緩めていこうという問題です。これを緩めると市町村が抜けて市町村がこぼれ落ちることが可能になりました。この官という枠組みこぼれ落ちるというのは、見方によっては集落自治に近いものになっている。これは、私は地方分権によって、私たちの作り出した自治政府が私たちの市民政府を変え、戻ってきた。こういう風に理解する。